私のオタク遍歴 その10 放送媒体編1

私は基本的には一般人で、テレビやラジオのような放送媒体に関してはあくまでも視聴者という立場なのですが、過去のある一定期間だけ放送媒体と関わったことがあります。
まずはラジオ番組とのかかわりについてです。東京の大学を卒業して地元の企業に就職して2年目ですから、1984年のことになるかと思います。私は職場で広報を担当していたのですが、当時の広告の出稿先であった新潟労音(企業労働者向けのコンサートなどの主催者)の担当者から、地元の放送局BSN新潟放送のアナウンサーの山中景子さんを紹介され、彼女のラジオでの新番組への協力をお願いされました。新番組のタイトルは「景子のほ~ん大好き」で書評番組でした。毎週土曜の午前11時過ぎからの30分枠の放送で、毎週課題作品を決めて、20代、30代、40代のそれぞれの世代の感想を放送するので、20代の読書好きということで協力していただけないかという依頼でした。課題本は小説、エッセイ、ノンフィクション、漫画とノンジャンルということで、私が普段ならば読まない本も読むことになるのではとお引き受けすることになりました。原稿量としては千字弱程度で、また原稿料は番組が低予算かつ私も一般人ということで発生せず、原稿の受渡しを行うレストランなどでの食事をご馳走していただいたり、直接、放送局に出向いて手渡すことになった際には、放送局宛てに届くCDの見本盤などをいただいていました。本来は放送局の外に出してはいけないものですが、大昔のことで既に時効みたいなものですし、転売や他人へ譲ったりは一切していませんのでお許し下さい。当初は書評原稿を書いての協力だったのですが、いつしか月に1度のペースで番組に出演し、感想を述べるという番組内容に変化していきました。基本的には山中さんと1対1で、スタジオに入って事前収録しての放送という形でしたが、いちどだけ山中さんがタイでの取材から戻ってこれなかったことがあり、職場にディレクターから連絡が入って、有給休暇をとって私がMC役をして、補助のアナウンサーをつけてもらって公開スタジオでの生放送という無茶をしたことも1回だけありました。結局のところこの番組は昭和から平成まで11年間続きましたが、当時は放送局のセキュリティもゆるゆるで、受付は顔パスで3階のラジオ・テレビ編成局まで上がっていましたが、今ではそんなことは不可能なことですね。
山中さんもその後定年退職し、私も職を変えることになりましたが、今に至るまで交流が続いているのはありがたいことです。テレビというかスカパーとの関わりについては次回の話にしたいと思います。