新潟にプロ野球球団設立について その6「NSGグループ(2)」

昨日はグループの概要について書くことで手一杯でしたが、今日はアルビに関連した部分を含めた内容でせまりたいと思います。
アルビレックス新潟の成功で一躍新潟県経済界のカリスマ的名声を得た池田氏ですが、NSGのスタート以来ずっと右肩上がりの成長を続けてきたわけではありません。専門学校が新潟ビジネス専門学校や新潟デザイン専門学校などまだ5校だった1985年頃に大きな危機を迎えます。最初の経営多角化に取り掛かり、職員採用に関しても強気の新卒50名以上の採用をはじめた2年目にいくつかの新規事業が失敗し資金繰りが苦しくなりました。その年の新入社員は殆んどの男子が宅訪の営業で専門学校・学習塾の学生募集。女子はダイレクトメールの封入・発送作業(万単位の封入作業が続きました)をさせられる羽目になったのです。それだけの苦労をしただけに池田氏多角化経営の怖さを人一倍知っているはずです。素人目で失敗することが明らかなものに手を出すことはないはずなのですが、今回の球団設立には私などの考えの及ばない何かがあるのかもしれませんね。
さて、NSGが危機的状況を抜け出すことが出来たのはバブルによる土地価格の高騰のおかげでした。専門学校の設置基準のひとつに校舎は自己の所有するものという条件があり、新潟市万代に立てられていた新潟ビジネス専門学校および駅南の新潟デザイン専門学校、新潟コンピュータ専門学校はみなNSGの自己物件でしたが、建てられている土地の評価が大幅に上昇(万代も駅南も一等地)し、銀行による貸付限度額も大幅に増加したため資金繰りに余裕が生まれたのです。そこで、既存の専門学校を分野ごとに分離独立させ市内の一等地に次々に校舎を建てました。その校舎が新たな担保物権となり次の資金を生み出していったのです。
もちろん、その後バブルの崩壊とともに土地価格も大幅に低下するのですが、その頃には専門学校の学生数は大幅に増加し金融機関からの信頼度も高いものとなっていました。
池田氏青年会議所に入会し、その会頭を務めるなど新潟の経済界に顔も名前も知られるようになっていたのです。そんな中で新潟にサッカーワールドカップ大会の招致の話が盛り上がり、スタジアムの建設プロジェクトともに、地元に本格的なサッカーチームを作りJFLそしてJリーグを目指すということで、その旗振り役に池田氏が祭り上げられました。1955年に設立されていた新潟イレブンを母体としたアルビレオ新潟FCを設立、1996年に会社化し、1997年には商標の問題からチーム名を県民投票によりアルビレックス新潟に変更、1998年JFL昇格、1999年J2昇格、そして2004年よりJ1に昇格することになったのです。
ここまで書いて少々疲れましたので残りは明日以降に回します。