[雑記]地下鉄サリン事件から23年

1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件から先週で23年が経ちました。実は一昨年末に亡くなった私の弟も築地駅で事件に巻き込まれていました。

写真の左側で薄い灰色のコートを着ているのが弟で、当時の朝日新聞の一面に掲載されました。
弟は勤務先に出勤のため北千住発中目黒行きの地下鉄日比谷線に乗って被害を受けたのです。当時の記録によるとこの列車のサリン散布を担当したのは林康男。サリンを3パック持ち込んだそうです。弟は運悪くそのサリンが持ち込まれた車両に乗り合わせて被害にあってしまったわけですが、乗車後車両の端の方に移動する際に、サリンのパックを跨いだことを記憶していました。幸いなことにこのパックはまだ穴があけられておらず、弟が致命的な被害を受けることがなかったのは本当にラッキーなことでした。その後被害者が続出し、列車は築地駅で運転を打ち切ることになったのですから。ホームから地上へ出る際に弟には異常がなく、地上に出て救急による救助を待つ間にも、具合の悪そうな人を優先して救急車に乗せてもらっていたそうです。その時の写真が上の朝日新聞の写真です。ところがそうしているうちに弟自身の気分が悪くなり、視界が狭まるなどのサリン中毒の症状が出始めて救急車のお世話になり、病院へ運ばれることとなったそうです。
私が弟が事件に巻き込まれたのを知ったのは偶然のことで、当時勤務していた新潟県長岡の専門学校で、インターネットの利用法について学生の指導をしていた時のことでした。学生にスピーディーな情報の取得ということで朝日新聞のニュースサイトを訪問させていたのですが、そこに地下鉄サリン事件の記事とともに上記の写真が掲載されていたのです。もちろん、その場では弟本人という確認が出来ませんでしたので、仕事を終えて新幹線で新潟に戻り帰宅すると、母親から弟の嫁さんからの電話で、弟が地下鉄サリン事件の被害を受けて入院したと聞かされました。その後は大騒ぎの状態で報道が行われているテレビを見ながら、病院へ行った弟の嫁さんからの報告を待っていたのですが、ニュースステーションの冒頭で流された映像にびっくり。弟の姿がアップで映し出されていました。弟は左手で見えなくなってしまった目を抑えるような姿で、築地駅から出てくる階段の脇の歩道に敷かれたブルーシートに座っていました。その姿はまだ元気そうでほっとしたのを覚えています。
その夜、病院から戻ってきた弟の嫁さんの報告を受けて、翌日に勤め先の学校へ休暇を願い出ると、父母を伴って新幹線で上京しました。弟が入院した先は聖路加国際病院で、病院を訪れるとそこはまるで映画やドラマで見る野戦病院のような様相を呈していました。待合室はもとより廊下までベッドが連なって被害者が横たわり、家族や関係者がそばに付き添っています。弟のベッドは病室にありましたが喜んではいられません。それだけ入院が長くなるという症状だということでしょう。病室で私たちを迎えた弟はベッドの上に上半身を起こし、目を見せてくれました。本当に報道のように黒目が点のようになっています。ただ声には張りがあり、元気なようだったのが幸いでした。サリンのまかれた車両に乗り合わせ、比較的元気に会話ができる者が少ないということで、多くのマスコミに取材を受けたと言って名刺を見せてくれました。
結局のところ、弟は一週間ほどの入院で退院することが出来ましたが、事件当時に着ていたものや身に着けていたものはすべて処分しなければならないということで、放棄同意書に署名捺印して、背広、ワイシャツ、下着から、コート、腕時計、鞄まで回収されてしまったそうです。つまり心身に受けた障害のみならず、物質的にも大きな損失を与えられてしまったわけですが、これについてはオウム真理教の破産手続きが終了して全体で4割程度の債権しか回収できず。現在も教団の信者を引き継いだ形の「アレフ」と「ひかりの輪」に支払いの継続が求められていますが、弟はその対象には入らずでしたので、被害額として申し出た約2割ほどが戻ってきたのみでした。
被害の後遺症に関してはその後約1年の間、就寝中にフラッシュバックに襲われることがたまにありましたが、地下鉄に乗れなくなるような心の障害はなく、問題なく職場に復帰することが出来たのは幸いでした。
そして事件から23年が過ぎた今、被害者であった弟は一昨年に病を得て亡くなり、オウム真理教関係者で死刑判決を受けた10人は誰一人死刑の執行が行われず、全員が存命であるということに不条理を感じずにはいられません。一昨年暮れの弟の死から始まる不幸の連鎖については、時間をかけて徐々に克服してきたつもりでしたが、先週の事件から23年という報道を受けて、また少し心のダメージが戻ってきてしまったようで、今週は体調、心のどちらも不調です。