星海銀の自分語り 第1回―Negiccoはジャパニーズポップスを中心とした才能のハブである その4―(その1)

私にとってアイドルという存在は、グラビアアイドルであるという時期が長く続いて、歌い手はアイドルとしてではなく、アーティストとして聴くというのが当たり前でしたが、Negicco(ユニットとしての)と出会って初めて、歌うアイドルを意識するようになりました。といっても基本的に私が聞いているのは今でもNegiccoに限定されているので、歌うアイドルオタクではなく、やはりネギオタといった方が間違いないようです。
さて、私はNegiccoとの出会いの前に、実はNao☆ちゃんとぽんちゃ(Megu)と出会っているのです。時は今から20年以上前の1998年4月に遡ります。当時NSG新潟総合学院に勤務していた私は、人事異動でアップルアートカレッジに転勤してきました。ほかにも数人が転勤してきたのですが、その中の2人が新規部門として芸能スクールを立ち上げる仕事を担当していました。私は専門学校の事務局が基本的な仕事だったのですが、芸能スクールの立ち上げに関する会議には常に参加していました。何回目の会議だったか、生徒募集の広報スタートに先がけて、芸能スクールの名称を決めるのが会議の議題となり、そこで私が提案したのが「アップルリトルパフォーマーズ」で、いくつかの案の中から私が提案した名称に決定しました。
そこから新聞広告や折り込みチラシなどを使って募集活動を行い、第1期生の入校オーデションが1998年の9月23日に開催されました。オーディションに課題曲や課題のダンスはなく、受験生の持参したCDを流して振り付け付きで歌ってもらい、歌とダンスの能力を審査する実技審査と面接が行われました。オーデションで私はビデオカメラで実技試験の模様を撮影していたのですが、多くの受験生が当時流行っていた安室奈美恵MAXの曲でチャレンジしていたのは覚えています。Nao☆ちゃんとぽんちゃMAXの曲を歌って踊ってたんですね。実技試験を終えるとそのまま同じ部屋で面接が行われましたので、面接の模様も脇で聞いていたのですが、私が担当していた専門学校の入試面接での受験生の受け答えとと比較すると、小中学生の子たちの方が目的意識もしっかりと、力強い受け答えをしていて感心させられたのを覚えています。
ただ、当時Nao☆ちゃんとぽんちゃはあまり目立たず、私の印象にも残っていません。さすがに10歳と9歳のふたりではまだ幼すぎてパフォーマンス面では中学生組には差をつけられていたのは当然でしょう。ですからNegiccoとして再会したときには残念ながら昔の姿を思い出すことができませんでした。
                              (この項続く)