「報道の自由」「表現の自由」っていう言葉は便利だなあ

イラクで人質になったいたアメリカ人男性が、生きながら首を切り落とされた映像がインターネット上で公開され、その映像をコマ撮りしたと思われるものが、今週発売の週刊誌などに掲載されています。
これも「報道の自由」「表現の自由」なわけで、本当にマスメディアにとっては便利な言葉だなあと思ってしまいます。
残虐な処刑シーンの一部始終を誌上で公開する意義は何なのでしょうか?
私は殆んど無意味に近い行ないだと思うのです。
現在アメリカがイラクで行なっている行為が、このような悲惨な状況を招く原因となっていることを伝えるために必要だとマスコミは言うかもしれませんが、現在のイラクの悲惨さを伝える方法や報道の対象は他にもたくさん存在します。
もし、首を切り落とされた人質が日本人であったら誌上公開できたでしょうか?
日本人で無いから問題は無いなどと考えているのであれば、外人には人権が無いということに繋がってしまいます。
また、インターネットで公開され、誰もが見ることのできる状態にあるのだから問題ないというのであれば、「報道」「表現」の内容を自主的に判断する権利を放棄したも同じでしょう。
読者は馬鹿ではありません。アメリカ人人質の残虐な処刑については、言葉で表現すれば読者の殆んどはどのようなことが行なわれたのかを想像することができる程度の想像力を備えています。
雑誌などで掲載された画像は、残虐な行為を糾弾するためでなく、過激な表現の画像に購買意欲をそそられる読者を対象にしたものに過ぎません。そんなことのために「報道の自由」「表現の自由」が掲げられてしまうのであれば、あまりにも「自由」という言葉の持つ意味が安っぽくなってしまうように感じられて残念です。