私のオタク遍歴 その24 大学生時代編6

大学3年の後半になると事情があって下宿していた小岩の伯母の家を出ることとなり、高円寺のアパートに引っ越して独り暮らしを始めました。このアパートは大学の同級生の親戚が大家さんをしていて家賃を安くしていただきました。同級生も同じアパートに住んでいました。アパートの場所は甲州街道の高円寺と阿佐ヶ谷のちょうど中間ぐらいで、道路沿いの小さな小路に少し入った場所になります。バス無しでトイレは共同という、1980年代当時としては典型的な独身・学生用格安アパートでした。
そのアパートの1階の部屋に私が住み、同級生は2階の部屋でした。減殺とは違って、私は荷物持ちではなく、部屋にはテレビも冷蔵庫もなく、洗濯もコインランドリーを利用というように、人生で一番物のない生活を送りました。甲州街道を挟んで向かい側に、当時出店し始めであったコンビニが出来たので、その店を冷蔵庫代わりに利用して、必要が生じた際に購入しに走っていました。同級生の部屋にはテレビがあったので、帰宅後は毎日深夜まで彼の部屋に居座り、自分の部屋には寝に戻るだけという生活でした。同級生と番組の好みが意外と共通していましたので、テレビ人間であった私もテレビには困りませんでした。食事も彼と一緒で彼の炊飯ジャーで彼の実家から送られてきた米を炊き、スーパーでの食材購入は私担当で。調理は彼担当で食べていました。
大学も3年になると出席しなければならない講義と、出席せずとも試験次第で単位が取得できる講義が分かるようになっており、大学へ通わなくても良い曜日が多くなってきました。週のほとんどは神保町の大学には通わずに、アパートから大学を通り抜けて対角線の先にある小岩の書店に通っていました。勿論アルバイトというのではなくて通いの居候のようなものです、開店前に書店に到着して当日の新刊・雑誌などの荷ほどきと陳列を手伝い、開店後は店主のおじさんと交代でレジに立ち接客をしていました。お昼になると昼食を頂いて、午後もレジに立ったり店の奥でテレビを見たりして、夕方になったら高円寺へ帰るという日々を送っていました。
アパート2階の同級生も小説家志望で、毎日昼過ぎに起きて大学へ通うでもなく原稿用紙に向かい、私と銭湯へ行ってきて夕食を済ますとテレビに見入る私とは別に、深夜まで原稿に向かっていました。彼は大学職業後就職してからも小説を書き続け、ある年の江戸川乱歩賞受賞者発表の際に最終選考通過者に名前が載っていることを確認しました。妙に誇らしかったです。